「新・平家物語」を読んで、平時忠が壇ノ浦の合戦後、能登に流され、そこで亡くなったと知りました。墓所もあるということでN-ONEで行ってきました。
途中、のと里山海道の道の駅高松にて
「平家にあらずんば人にあらず」と言ったとかで有名な平時忠。平清盛の妻の弟。つまり清盛は義兄という続柄になります。また、源義経の妻の父。つまり、義経は娘婿ということになります。
墓所は石川県珠洲市 大谷町字則貞
道路脇の案内板などを見ていると、マイクロバスが止まってワラワラと人が降りてきた。
当地の観光ボランティアの研修会だということで、たけぼうもグループに加えていただき、説明を聞きながら巡りました。講師の方は、元学校の先生のようで、「六年生をここに連れてきて・・・」というようなお話もされていました。久しぶりの社会科見学の気分でした。勉強になりました。ありがとうございました。
墓所は国道から少し歩いたところ。整備されていますが、なかなかの坂道。
一族の墓所。
フェンスに囲まれていて、近くにはいけません。以前は鍵を開けてもらってフェンス内に入ることもできたそうですが。
一番大きなもの(写真中央)が平時忠のものらしい。
五輪塔が並んでいますが、長い年月の間に塔が崩れてばらばらになっていて、組み直したものなので、建てられた当時の状態かどうかはわからないそうです。
周囲を山に囲まれ静かです。以前は水田だったそうですが、現在は耕作する人もなく、ひっそりとしています。
山の向こうに風力発電機の羽が見えるのが現代になって変わったところでしょうか。
時忠が能登で詠んだ和歌には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえで松の幾夜経ぬらん」がありますが、「能登の国 聞くもいやなり すずの海 また吹き戻せ 伊勢の神垣」という歌もあるそうです。時忠は海が嫌いだったのでしょうか。平氏一門は海の一族ですが、壇ノ浦で壊滅してからは、みんな山奥に逃げてしまいましたね。時忠も最初は沿岸に居を構えていたそうですが、あとからこちらへ居を移したそうです。
平家にあらずんば・・・と言った人が、こんな僻地で最後を迎えるとは。平家にあらずんば発言は1174年、能登に流されたのは1185年。わずか10年あまりでこの変わり様。能登に流されわずか4年、1189年に亡くなりました。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり諸行無常を感じられる平時忠墓所でした。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ
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